Opinion
多様化の時代 性別の短絡化は許されぬ
By Kagurazaka Noa
アンケートなどに性別欄を見るたびに戸惑ってしまう。人間を「性別」という生理的な特徴で平面的、短絡的に二分化していいのかと。現代社会にこのような分け方が存在するのは合理的なのかと。
「男らしさ」、「女らしさ」。これらは我々がよく口にする言葉だが、世界中の数十億人をたった二つの模型に当て嵌めようとするこれらの言葉は、多様性が謳われている現代に逆行しているのではないか。多数者によって定められた、「公共の利益のため」とも言えない標準に従わない限り、社会的に認められないと言わんばかりのこれらの観念は、数の暴力でなくてなんだろうか。
そもそも人間とは複雑な生き物であり、「男」と「女」という深さに欠けている二分論で概括できるほど単純ではない。人間それぞれには自分の個性や好み等があり、決して機械のように量産されたものではない。それにもかかわらず、性別という基準を用い、人間を動物的な存在とみなしているかのような分け方をすることに頷けない。
もちろん、性別に統計学的な価値があるとは認めざるを得ない。多くの男性と女性はそれぞれ、所謂「男らしさ」と「女らしさ」に総じて合っているのは事実だ。だが、多数の正義は絶対の正義と言わんばかりの考え方をもとに、「性別」という色眼鏡で人を見るのは、到底許せる行為とは思えない。
残念ながら、我々の特定の性別に対する特定の固定観念に合わない人に、我々は「この人は普通の男/女じゃない」と、軽率な判断でレッテルを付けてしまう。ぬいぐるみを好む男性、「僕」と第一人称とする女性、ネイルをする男性、料理ができない女性。どう思われるだろうか。やはり「普通じゃない」と、烙印を押されてしまうのは現状であろう。
最近話題となった、NHK放送中の連続テレビ小説「虎に翼」を想起させる。同性愛者の轟太一、トランスジェンダー女性の山田、男装女子の山田よね、女性法律家の三淵嘉子などが登場し、性的マイノリティーを真正面から取り上げたとも評価されているドラマである。「エンタメもリアルの世界でも、目の前の人を勝手にシスジェンダーといった性的マジョリティーだと思い込んでいる……社会全体に「性別二分法」が広く行き渡り、小さな頃から「男女二つの性しかない」という情報のシャワーを浴びていて、想像力が働かない」と、ドラマの「ジェンダー・セクシュアリティー考証」を担当した、前川直哉・福島大准教授が訴えた(朝日新聞Re:Ron 2024/9/14より引用)。また、今年七月テレビアニメ化された、漫画「先輩はおとこのこ」も、男なのに可愛いものが好きだという、自らの性別に違和感を覚える女装男子の花岡まことを主人公とし、彼の複雑な心境を描く作品である。小さい頃から「男らしく」振る舞うことを強いられ、自分を生きるために周りの冷笑と偏見に晒される姿に同情を禁じ得ない。「人生は芝居如し」ならば、現実においても、このようにジェンダーバイナリに苦しませられている人が存在していることを等閑視していいのか。
近年、LGBTQ等、性的マイノリティという概念が社会に浸透しつつあるのは歓迎すべきことだ。しかし、性別の種類を増加させることは、二分論を三分論、四分論にするにすぎず、性別による人の分類の不合理性は解消されない。また、性別種類の増加は混乱を招きかねず、到底望ましい策とは言い難い。
よって私は不要な性別欄の廃止を求めたい。先ほど述べた、ジェンダーバリアンスを示した人々は、必ずしも自らの性自認に疑問を抱いているわけでもないし、たとえ性的少数者であっても、LGBTQのような、鮮明に画定された枠に内包されうるとは限らない。性別登録の強制という、多様性を拒み、人間性を矮小化することは、現代社会にあってはなるまい。
当然、銭湯や化粧室など、男女の生理上ないし外見上の差異があるが故に、性別差による規制を設けるのは、公序良俗を維持するために必要だとは認める。また、医療現場では、患者の性別によって異なる治療を実施することが多いため、性別記入の必要性がある。性別を研究対象の一つとする学術研究も、性別を統計学的デートとして集める必要があると考える。
だが、ほとんどの場合において、性別の記入の必要性が見られない。商品購入や受験申込は言わずもがな、会社の履歴書や学校の出願書にも性別欄は必要でないのではないか。「性別の違いは人の得意分野の違いにも繋がり、適性検査に必要だ」という見解は一見合理的だが、深く考えてみれば、適性検査にあたって本質的なのは、その応募者の性別か、それとも能力か、と問わずにはおかない。少数ながら、介護職に向いている男性がいれば、力仕事に向いている女性もいる。性別という大雑把な足切りの基準で応募者を選別するのは、必要でないどころか、有害ですらある。応募者に極めて不公平であり、企業も優秀な人材を見逃しかねない。実に不合理極まりない。
事実、経済協力開発機構による学習到達度調査では、日本の女子生徒の理系の平均能力が世界と比べて高いが、女性の理系学生と研究者は極めて少ない。「優秀にもかかわらず、日本では女性は理系に向かないというバイアスが強い」と横山広美・東京大教授が話した。理系学部と研究機関において女性に与えられた機会が少ないのは、能力の問題ではなく社会からのアンコンシャスバイアスだということが伺える。このように、受験生や就職者を選別する際、注目すべきなのはそのひとの実力と適性なのではないか。
ここで強調したい。私はユニセックスなど、「性別の違いを見せるな」という価値観を唱えるつもりはない。むしろ私の主張はその逆だ。分断的な性別という分類方法を廃止し、人間それぞれの特徴を、スペクトルのように、連続相的の捉える社会を、私は望んでいる。
人間は完全な精神体であり、ただの有機体ではない。性別による人間の分類とそれに伴う不要な性別記入要請は、人間の性質を極度に単純化された末生まれた歪な結果だとしか言いようがない。これはまさに、世界が多様化へ進む途上、大きな障壁だといえよう。高度な知能と人間ならではの人間性を誇る我々を、短絡的に男性・女性・その他としてではなく、しっかり一人一人の人間として、扱ってもらいたい。